酒蔵経営者の言葉から紐解く日本酒の歴史 〜信州編〜

明鏡止水で有名な大澤酒造の大澤社長の言葉とは⁈

明鏡止水は、全国的にも有名な日本酒です。その日本酒を作っているのが、長野県の佐久に酒蔵を持つ大澤酒造です。その社長である大澤社長に「昔の酒蔵は、どんな人に飲まれることを想定していたんですかね?」と質問したところ、これまでの酒蔵さんとは少し異なった返答が返ってきました。

どの村や町にも数件は、小さな造り酒屋があったから、村人も飲めるものだったかな。

ということでした。これは、これまで様々な記事で紹介した石川県や新潟県などの日本海側の日本酒事情と若干異なっているように感じました。というのも、これらの地域では、城下町や門前町、港町に卸す日本酒が多かったのが特徴です。それに対して、「小さな造り酒屋」というのが気になり、調べてみることにしました。

江戸時代の長野(信濃国)と酒蔵

整備された中山道と大名中心の士農工商制度

上の地図が、長野県の地図になっていますが、長野県南部から西部にかけて、日本アルプスが横たわっています。そのため、ここを通る中山道の整備を幕府は早急に行いました。その旧中山道の経路はこちら↓

上記の旧中山道を見ていただくとわかるのですが、山間を縫ったようにして、敷かれているのがわかります。このことからもわかるように、旧中山道を整備することによって、「人・もの・カネ(貨幣)」の流通が活発になりました。

また、峠が多い旧中山道の整備によって、その峠の前後には、宿場町が置かれ、そこでも「人・もの・カネ(貨幣)」の流通が活発になり、それによって、このような地方まで「貨幣経済」が浸透していくようになっていきました。ちなみに、長野県の旧中山道に置かれた宿場町は、25箇所にものぼります。

旧中山道沿いの城址にも目を向けて見ると、この旧中山道は、城は多くないものの、城と宿場町は、ほど近い場所に位置していて、この環境で、現存する酒蔵も数多くあります。そのため、宿場町と城が近い場所では、酒造りは盛んに行われていた形跡があると言えるでしょう。

まとめ
①旧中山道の整備によって、「人・もの・カネ」の流通が活発になり、数多くの宿場町(山間部も含む)が栄えた。
②①の結果、「貨幣経済」の浸透がより深まった。それにより、酒などの嗜好品も貨幣で取引するのが以前より容易になった。
③旧中山道は城が多くないが、城がある場合のほとんどが、宿場町とほぼ同じ位置にあり、そこでも酒造りが行われていた。

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